はじめに〜歩み編纂にあたって

*不思議な出会いと絆のスタート*

 それは、昭和40年(1965年)4月中旬のことでした。50年以上も前になります。
  東京薬科大学合唱団(以下、東薬合唱団)では、その時点での全部員数を上回る新入生の入部受け入れ対応に追われていたそうです。その光景は、東薬合唱団のさらなる発展の幕開けを予感させるものと、当時の語り草となりました。
  それから2か月半過ぎの6月15日(火)、東京神田共立講堂において東薬合唱団第9回定期公演(翌年の第10回からは定期演奏会と表記)が開催されました。4年生にとりましては最後の成果発表会です。当日のプログラムによれば、部員総数127名の内66名が私たち同期新入部員で、全体の半分強を占めていたことが分かります。
  余談になりますが、同一学年部員数66名は、東薬合唱団史上未だに破られていない記録なのです。その時のパート別内訳は、ソプラノ15名、アルト21名、テノール13名、ベース17名でした。また、66名の出身地は23都道府県(北海道、青森、岩手、山形、福島、茨城、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川、新潟、山梨、静岡、岐阜、三重、京都、大阪、香川、徳島、山口、広島、大分)で、全国に及んでいたことになります。もう一つ余談があります。数週間で退部した新入生も含めると、入部者は80数名だったという逸話(いや噂話か?)もあったようです。
  定期公演までの2か月間、ステージ曲を覚えるのに精一杯でした。2ステージの曲を、どうやって暗譜まで漕ぎ着けたのか、記憶が定かではありません。ほとんどの男子部員は、合唱経験ゼロでした。パートリーダー(以下、PL)や上級生の苦労は、想像を絶するものだったと思われます。今思えば、“何たる荒業をこなしたことか!”と、回想するしかありません。
  また、東薬合唱団における私たちの前途に、大きな影響を及ぼしたある光景が思い出されます。忘れもしません。あれはゴールデンウィークの特別練習とゲネプロでした。多くの新入部員は、上級生が一心不乱に歌い上げるある合唱曲の圧倒的なスケールと響きに、収まることのない心の震えを覚えたのです。その曲は第18回芸術祭受賞作品「岬の墓」(堀田善衛・作詞/団伊玖磨・作曲)でした。その時の感動は、最上級生として臨むことになる第12回定期演奏会(以下、定演)において、“学生指揮者で挑戦したい”という目標へと深化していったのです。
  暗譜といえば、4年間のステージの殆どが暗譜でした。だからでしょうか、今でも空で歌える曲がいくつか在るのです。楽譜を携えてステージにあがったのは、唯一2年次のフォーレ「レクイエム」だけだったと記憶しております。
  それから2年半が経ちました。
  第10回定演までの公演日は6月(中旬〜下旬)でした。“もっと聴衆に納得して頂ける演奏を”、“考えられる最高の出来栄えの合唱を”、…… 上級生を中心とした一途で真摯な向上心は、11月定演の道を選択しました。それは第11回目の定演でした。
  私たち同期生は、第11回定演の翌日(昭和42年11月17日)から最上級生として新執行役をスタートさせました。総まとめのステージを昭和43年11月8日(金)の第12回定演と定め、『勉学と部活の両立』を部員の絶対条件として、試行錯誤の船出をしたのです。
 同時に、新たな指揮者をお迎えすることとなりました。今でも私たち会員の行事にお元気な顔を見せてくれます早川史郎先生です。振り返って、入学時の小松幸雄先生、2年次後期からの長昭男先生、そして私たちの一番の恩師である早川先生からご指導を仰いだことになります。東薬合唱団65年の歴史において、3人の音楽家のもとでステージに立つことができたのは、わずか3世代のみなのです。……………

*今だから気づかされる純粋な志、秘めた情熱、一途な行動*

  当時を思い起こしながら、あの東薬合唱団での4年間は、社会人になって以降の48年間とは比較出来ないほどに、愚直で、未熟で、しかし真面目で真剣で我武者羅な、内容豊かな毎日でした。そう感じているのは私だけでしょうか。
  今から数年前になります。半世紀近く遠いかなたの青春の数ページを、史実として留めておこうと意識するようになりました。その理由について少し紙面を割いてみたいと思います。
  平成2年(1990年)8月下旬、仙台市作並温泉で4回目の同期会が開催されました。かなり間が開いた同期会でしたから、卒部以来の再会という方もいらっしゃったと思います。東北大学混声合唱団との第2回交歓演奏会場であった東北大学川内記念講堂にも足を運びました。
  以来、唱和会と命名して、定期的な会合が企画され現在に至っております。全員が集まることはもう難しいとは感じながら、苦楽を共にした仲間との貴重な共有財産の存在を意識するようになったのです。50年近くの仕事経験から鑑みても、あの粗削りな行動力は魅力的であり、感動すら覚えてしまいます。
  そのことを改めて気づかせてくれたきっかけの一つが、当時の東薬合唱団機関誌「ハーモニー」へのいくつもの寄稿文でした。あの人が、あの時に、あのような志や問題意識を描いていたのか、何と純粋に率直に問題提起をしていたことか、… 。何か心洗われるような、くすぐったいような、甘酸っぱいような、そんな思いが交錯しました。さらには、非常に未熟であった私自身の幼さを気づかせてくれました。素直にそう感じたのです。
  余談の再登場になりますが、機関誌「ハーモニー」は東薬合唱団がそれまで築いてきた知的文化の財産なのです。10数年の歴史が育んだ東薬合唱団の土の香りなのです。そんなことが解るような年代になったのでしょうか。視野が狭いながらも、目の前の合唱と真剣に向き合っていた秘めた情熱が、眩しいほどに輝いて見えたのでした。
 そのようないくつかの思いが、歩みの編纂を促してくれました。

*同志との足跡を残そう*

  当初の目標は、正確な行事歴、演奏会歴をまとめることでした。それも、最上級生として団を引き継いでから卒部するまでの1年半(昭和42年11月17日〜昭和44年3月20日)に絞って、 そのための情報や資料を集めることからスタートしました。しかし、私自身がそうであったように、多くの会員が転居されたと思います。転居するたびに、歴史の古いものから処分するのは当然でしょう。スタートからの半年間は、牛歩以下の歩みで推移いたしました。そんな状況でしたから、アクセス可能な方々には、情報提供の再々要請をしたこともありました。(ゴメンナサイ)何人かの後輩にも間口を広げました。
  それが功を奏したかどうか定かでありませんが、現存する写真や資料、そして記憶情報が集まり始めました。最近になって入部時(昭和40年4月)からの、記憶の果てから外れていた写真も集まりだしました。かなりの時間を費やしながらも、散らばる点が線になり、その線が片になって形が表れてきました。懐かしい写真が断片情報を正確な情報へと導いてくれたのでしょう。
 写真は山根君・保坂さん・小野さん・山口君・浅香君・宮坂君・早川先生・井澤君(1年後輩)、定演チケットは小野さん、電報と岬の墓の楽譜は山口君から提供頂きました。写真の殆どは、当時の東薬合唱団専属的カメラマンだった山根君所蔵のものです。合唱サークル、結婚の歌の楽譜・訳詞集、スペイン歌舞曲の楽譜は早川先生から、難航していた演奏会の全パンフレット、定演レコード写真は井澤君からお借りしました。そして、第12回定演と沼津演奏会のCD作成は、全面的に早川先生からご尽力賜りました。早川先生との連絡は木村君のアシストのお陰です。そして、あれやこれやの連絡、最後のWEB媒体制作については、山口君が担当してくれることになりました。この場をお借りいたしまして、心から感謝申しあげます。まことに有難うございました。
 最終的には、集まりました写真や資料を取り込んで、WEB上にホームページを開設することになりました。パソコンやスマホなどを通して、自由に閲覧出来るようになります。一方、パソコンが苦手な方には、紙媒体やCD(DVD)での配信も考慮する予定でおります。
  尚、いくつかの行事や添付写真の実施日、会場名は不明のままです。(別紙「知りたい情報・探している写真リスト」参照)手がかりとなりそうな情報や資料をお持ちの方、或いは記憶が蘇った方は、不確かな情報で構いませんから、ご連絡のほど宜しくお願い申しあげます。また、新たな写真が見つかった場合も、ご提供のほどお願い申しあげます。集合的な写真は、追加でアップしたいと思います。
  そして、これを機会に、多くの会員との再会を切望しております。

(文責:井上 和裕/平成28年8月28日記)